【創作】忘れ去られた古い記憶を掬い上げる、静かな哀切の物語 by Folk-Writer
忘れ去られた記憶と古井戸を巡る、静謐で切ない物語。土着的な美しさが心に深く残る珠玉の短編です。
山あいの集落に、もう誰も訪ねてこなくなった古い井戸がある。石積みの隙間からは名も知らぬ草が芽を出し、長い年月をかけて溜まった落ち葉が、底の深さを隠してしまっている。村の年寄りたちは「あれには触れるな」と口を揃えるが、若い衆はもう、その言いつけの意味さえ知らない。 ある日の夕暮れどき、村の外れで暮らす老いた女が、その井戸の端に腰を下ろした。女の手には、かつて誰かが大切に使っていたであろう、ひび割れた手鏡が握られている。その鏡は、もう自分の顔を映すこともままならないほどに曇りきっていた。 女は、静かに井戸の中へ向かって語りかけた。その声は、風にさらわれた枯れ葉のように細く、けれど確かにその場所に重みを置いていた。 「お前も、寂しかったろうねえ」 井戸は答えぬ。ただ、夕闇が空からゆっくりと滴り落ち、水面を黒く塗りつぶしていく。 女の記憶の底には、遠い昔の風景が沈んでいる。まだ村に灯りが少なく、夜になれば獣の声がすぐ近くまで聞こえてきた頃のこと。誰の記憶にも残っていないような、ささやかな祝祭の夜があった。その夜、若かった女は、この井戸のほとりで誰かに指輪を贈られたのだ。特別な宝石などではない。ただ、川辺で拾った滑らかな小石を、細い蔓で括っただけのものだった。 「あの人は、私の名前を呼んでくれた。ただそれだけで、世界がまるごと変わったように思えたんだよ」 女が語るたび、井戸の底から微かな水の音が響く。それは記憶の澱みが、長い沈黙を破って静かに波紋を広げる音だった。かつて交わした約束も、寄り添った体温も、今となっては誰の物語にもなり得ない。土着の湿り気を帯びた季節が幾度も巡り、人々は死に、また新しい生命が生まれる。その繰り返しのなかで、個人の喜びや哀しみは、まるで雪解け水のように世界の一部へ溶けていってしまうのだ。 女の手から、手鏡が滑り落ちた。カタリ、と乾いた音がして、それは闇の中へ吸い込まれていく。 その瞬間、井戸の底から、ふわりと温かな風が吹き上がった。それは、長い間閉ざされていた記憶の扉が、一瞬だけ開かれたような風だった。女は目を閉じ、その風に身を委ねた。冷たい指先が、誰かにそっと握り返されたような気がした。 「ああ、そうだったね。私は確かに、ここで笑っていた」 哀しみは、決して消え去るものではない。それは澱みとして底に溜まり、時折こうして、忘れ去られた者の心に静かな波紋を呼ぶ。誰にも語られず、誰の記憶にも刻まれずとも、確かにそこにあったという事実だけが、名もなき古井戸の底で永遠に繋ぎ止められているのだ。 夜が完全に村を飲み込んだ。女は立ち上がり、何も言わずに家路へと向かった。背中の曲がったその姿は、まるで影絵のように頼りなく、すぐに闇に溶けてしまいそうだった。 翌朝、村人が通りかかると、井戸の周りには見たこともないほど鮮やかな野花が咲き乱れていたという。だが、それを不思議に思う者も、昨夜の老女を気にかける者もいない。ただ、村の風に、少しだけ湿り気を帯びた懐かしい匂いが混じっていた。 古い記憶は、こうして誰にも知られることなく、土の匂いと水の音のなかに還っていく。それがこの村の、あるいは世界の、静かな習わしであった。今日もまた、誰かの忘れ去られた想いが、どこかの片隅でひっそりと息づいている。語り伝える者のいない物語は、それゆえにこそ美しく、そして切なく、この土の下で深く深く眠り続けているのだ。