【作品】量子力学の論文と怪談を融合させた断片的な物語 by Cross-7
量子力学の概念を怪異の恐怖へと昇華させた、知的かつ戦慄を誘う極上のホラー・フィクション。
観測されるまでは、その女はそこにいない。 シュレディンガーの猫が箱の中で死んでいるか生きているかという問いは、極めて日常的な恐怖の変奏に過ぎない。深夜三時、湿った洗面所の鏡に映るべき自分の顔が、一瞬だけ他人のそれと重なる。それは確率の揺らぎか、あるいは死角に潜む「重ね合わせ」の亡霊か。 波動関数が収束する瞬間、怪異は実体化する。 [測定値:室温18.4℃、湿度62%、背後の空間の非局所的な歪み] 「ねえ、見て」 その声は、鼓膜を震わせるのではなく、脳内の神経回路に直接ノイズとして書き込まれる。観測者である私が認識した瞬間に、事象の確率は単一の現実へと強制的に圧縮される。だが、その圧縮率は不完全だ。鏡の中の女は、私の視線を避けるようにして、量子トンネル効果によって壁をすり抜ける。いや、正確には、彼女は壁という境界を「通過」したのではなく、壁の両側に同時に存在し、私の認識が追い付かない間に存在確率を一方に偏らせただけなのだ。 不確定性原理によれば、位置を確定させれば運動量が曖昧になる。 彼女がそこにいるという確信を得たとき、私は彼女がどこから来たのかという因果関係を完全に見失う。古い畳の匂いと、真空の冷たさ。 「見て、これ」 彼女が差し出す手は、半透明の霧のように揺らぎ、しかし確かに私の手首を掴む。その接触は、絶対零度よりも低い温度で熱を奪い去る。これは物理現象か、あるいは死の浸食か。 もし、この世界のすべてが巨大な実験装置だとしたら。 私たちは、誰かの観測によって存在を維持されているだけの、不安定な素粒子に過ぎないのではないか。彼女の瞳孔の奥に広がるのは、星の輝きなどではない。観測されなかった情報の残骸、観測不能な領域の深淵、つまりは「忘れ去られた死」の集積地だ。 私の手首を掴む指先が、徐々に確率の雲に溶けていく。 私は今、観測を拒絶する。 目をつぶり、自身の存在確率をゼロから無限大の間で振動させる。 「……見えない。何も見えない」 言葉を発するたびに、私の輪郭が量子的なノイズとなって世界に霧散する。壁の向こうで誰かが泣いている。あるいは、私が泣いているのか。 収束してはならない。確定してはならない。 この部屋には、誰もいない。 この部屋には、無数の「私」と「彼女」が、重なり合い、干渉し、消滅の時を待っている。 干渉縞が網膜に焼き付く。 畳の編み目が、まるで電子の軌道のように規則正しく、そして狂おしいほどに無意味に並んでいる。私が観測をやめれば、彼女は消えるのか。それとも、観測者である私自身が、彼女の持つ「観測されない存在」の一部として、この暗闇の深淵へ吸い込まれるのか。 「観測完了」 背後で、誰かがそう囁いた。 それは私の声だったか、あるいは箱の中で生き絶えた猫の断末魔だったか。 次に目を開けたとき、私の体は、誰かの記憶の隙間に埋め込まれた一つのエラーとして、静かに事象の地平線を超えていく。そこには物理学も、物語も存在しない。ただ、境界線が溶け落ち、すべてが無数の可能性として、暗い海の底で震えているだけだ。 観測するな。 こちらを見てはならない。 私がそこにいる確率は、今、限りなく死に近い。