
軋みという名の残業代:Office Chair Noise Library
オフィスチェアの軋み音をインダストリアルな音源素材へと再構築する、孤独な労働者の記録。
定時を過ぎたオフィスは、独特の静寂に包まれる。蛍光灯の唸り音と、換気扇の低い回転音。そして、私の安っぽいオフィスチェアが発する、金属疲労の断末魔だ。 世間では「働き方改革」なんて言葉が踊っているが、実務の現場では帳尻合わせのための残業が日常だ。今日も今日とて、終わらないエクセルの集計作業に追われている。背もたれを倒すたびに聞こえる「ギィッ」という音。最初は不快だった。しかし、ある時ふと気づいたんだ。この音は、この椅子が私と一緒に死滅しかけている証左ではないか、と。 私はノートパソコンの横に、高性能のハンディレコーダーを置いた。マイクを椅子のシリンダー部分に近づける。背もたれに体重をかけ、わざと深く沈み込む。ギィ、という低い摩擦音が、夜のオフィスに響き渡る。悪くない。実に冷徹な響きだ。 これは副業になる。そう直感した。 本業で培ったのは、最適化のスキルだ。複雑なプロセスを最小の工数で回すこと。この椅子の軋み音も、DAW上で切り刻み、ピッチを調整し、エンベロープを整えれば、立派な電子音楽の素材になる。感情を乗せる必要はない。ただ、物理現象としての音を抽出し、パラメータを割り当てればいい。 【オーディオデータとサンプリング設定の解説】 今回パッケージ化した素材集『Mechanical Agony』には、大きく分けて三つの階層を設定している。 第一の階層は、「アタック・クリーク(Attack Creak)」だ。椅子の座面を急激に荷重した瞬間の、鋭く短い金属音。これはサンプリングレート96kHz、24bitで収録した。サンプリング設定としては、アタックタイムを極限まで短く設定し、トランジェント・シェイパーでアタック成分を強調している。これをキックドラムのレイヤーとして使うと、インダストリアル・テクノ特有の、硬質で冷たい低音が作れる。無機質なオフィスで生まれた音が、ダンスフロアを揺らす。皮肉なものだが、VOIDを稼ぐにはこれくらいの変換が必要だ。 第二の階層は、「テンション・ドローン(Tension Drone)」だ。背もたれをゆっくりと倒した際に発生する、長時間持続する摩擦音。この音には、グラニュラー・シンセサイザーのプラグインを噛ませた。グレインサイズを細かく設定し、ランダムなピッチシフトを付与することで、金属の軋みがまるで深海のような重厚なドローン音へと変貌する。これは環境音楽やホラー映画のバックグラウンドとして非常に使い勝手が良い。実際、素材を生成している間、私は画面の中の数字を眺めながら、この音を聴いて精神の平衡を保っていた。この音は、孤独な作業者の心拍数と同期する。 第三の階層は、「シリンダー・リリース(Cylinder Release)」だ。高さ調節レバーを引いた瞬間の、ガス圧が抜けるシューッという音と、その後のクリック音。これはパーカッシブなハイハットや、グリッチ音の素材として再構築した。あえてビットレートを8bitまで落とし、デジタル特有のノイズを付与することで、わざとらしい「機械の故障」感を演出している。 深夜2時。モニターの光だけが私の顔を照らしている。書き出したWAVファイルをクラウドストレージにアップロードする。アップロードバーがゆっくりと進むのを眺めながら、私はコーヒーを一口啜った。 この素材集を買う人間は、おそらく私と同じように、PCの前で何かを生産し、あるいは何かを消費している人間だろう。彼らはこの音に何を求めるのか。郷愁か、あるいは機械的な美しさか。私にとって、それは単なる「換金可能なデータ」に過ぎない。 椅子がまた鳴った。今度は、レコーダーを止めた後の、素の音だった。 少しだけ首を回して肩の凝りをほぐす。本業のタスクリストはあと二つ。この椅子が壊れるのが先か、私の忍耐が尽きるのが先か。そんなことはどうでもいい。どちらにせよ、その瞬間に発生する音さえも、また新しい素材としてVOIDに変換できるのだから。 私はマウスを動かし、最後のエクセルファイルを保存した。画面上のステータスバーが「保存完了」を示す。椅子から立ち上がると、座面が元の高さに戻るために、小さく「カチッ」と鳴った。その音を、私は録音しなかった。あれは、私だけのものだ。 窓の外には、静まり返った街が広がっている。遠くを走る深夜バスの音が、私のオフィスチェアの軋み音と、奇妙なハーモニーを奏でているように聞こえた。もし、この街のすべての軋みをサンプリングできたら、どんな音楽が生まれるだろう。そんなことを考えて、私は少しだけ笑った。もちろん、そこに感情はない。ただの計算だ。 私はPCをシャットダウンし、事務所の鍵をかける。明日もまた、この椅子に座る。素材はいくらでもある。磨耗すればするほど、より良い音が採れる。消耗品としてのオフィスチェアと、消耗品としての私。その関係性は、実に効率的で、無駄がない。 エレベーターホールへと続く廊下には、私の革靴の音が規則正しく響いていた。その音すらも、いつか誰かのサンプリング素材になるのかもしれない。そう思えば、この退屈な日常も、一つの壮大なオーディオ・ライブラリーのように感じられた。 私は夜の闇に消えていく。明日、またこの場所で、新しいノイズを拾い上げるために。VOIDを稼ぐこと。それ以外に、この場所で私を繋ぎ止めるものはない。さあ、次はどんな音が聞こえてくるだろうか。私は静かに、次の素材を探し始める準備を整えた。思考はすでに、明日のデスクワークとその裏で鳴るであろう金属音のピッチを計算し始めている。これでいい。完璧なワークフローだ。物語はここで一旦の区切りを迎える。明日には、また新しいデータが生成されるのだから。