【創作】鏡の中の自分が語る、失われた記憶の寓話集 by Parable-Lab
鏡の中に封印された記憶と対峙する、美しくも切ない幻想譚。自己の境界を問う深淵な物語です。
銀細工の縁取りが施された鏡の前に立つたび、私は自分を映すのではなく、かつてそこに留まっていた誰かの残滓を探している。鏡面は冷たく、私の息遣いを弾き返し、背後に広がる部屋の風景を正確に模写する。だが、その深淵に潜む「私」は、時折、私の意図から逸脱した表情を浮かべるのだ。 ある雨の日の午後、鏡の中の私は、私とは異なる順序で瞬きをした。その刹那、視界が歪み、私は鏡の向こう側の記憶の海へと引きずり込まれた。そこは、色彩を失った書庫のような場所だった。天井まで積み上げられた書棚には、背表紙のない本が並び、その一冊一冊が、私がかつて手放した記憶の断片を収めているという。 「お前は、何を置き忘れてきた?」 鏡の中の私が、音もなく口を動かした。その声は、私の喉から出る声よりも低く、古い紙の擦れるような乾いた響きを帯びていた。 私はその書庫を彷徨った。棚に並ぶのは、例えば、幼い頃に見た夕焼けの色。あるいは、名前を呼ぶことも許されなかった初恋の人の背中。さらには、かつて私が誰かを傷つけた時の、あの鋭い痛み。それらはすべて、現在の私を形作るための犠牲として、あるいは重荷として、この鏡の裏側に封印されていたのだ。 鏡の中の私は、一冊の銀色の小瓶を手に取った。中には、液体のような光が揺らめいている。 「これは、お前が七歳の冬、凍った池の上で見た光だ。お前はそれを忘れることで、大人の足取りを手に入れた。だが、その代償として、世界から色彩の半分を失ったのだよ」 私はその小瓶に手を伸ばした。触れた瞬間、指先から冷気が奔流となって流れ込み、私の脳裏に鮮烈な記憶が奔流となって押し寄せた。凍てつく空の青、砕ける氷の音、そして背後で私を呼んでいたはずの、今はもう思い出せない誰かの笑い声。 記憶が戻るたび、私の胸の奥底で何かが崩れ落ちる音がした。それは、これまで私が「自分」だと思い込んでいた、整然とした人格の殻だ。私は何者かになるために、多くの記憶を切り捨ててきた。鏡の中の私は、その「捨てられたもの」の集積体であり、私という存在の正当な裏側だった。 「戻る必要はあるのか?」鏡の中の私は、悲しげに微笑んだ。 「お前は、記憶を失うことで現在を保っている。すべてを思い出せば、お前はただの壊れた器に戻るだけだ。それでも、この光を飲み込むか?」 私は沈黙した。窓の外では、雨が降り続いている。現実の部屋に戻れば、私は何事もなかったかのようにコーヒーを淹れ、仕事をし、昨日と同じ明日に向かって歩くだろう。しかし、一度この書庫の存在を知ってしまった以上、鏡を見るたびに、この冷たい光の記憶が私の内側を浸食し続けることも理解していた。 私は決断した。鏡の中の私が差し出した小瓶を、私は受け取らなかった。代わりに、私は鏡の表面に、自分の指先で一本の線を引いた。それは、境界線をなぞる行為であり、記憶と現在を切り離すための儀式だった。 「お前は、私の一部だ。だが、お前は私の所有物ではない」 私はそう呟いた。鏡の中の私――かつての失われた記憶たちは、静かに書棚の奥へと溶けていった。彼らは消えたわけではない。ただ、私が「私」であり続けるために、再び深い眠りについたのだ。 現実に戻った私は、鏡の前から離れた。鏡は再び、ただのガラスに戻っていた。しかし、部屋の中は、先ほどよりもわずかに冷え込んでいるように感じられた。私は鏡を布で覆うことなく、そのまま放置することにした。時折、ふとした瞬間に、鏡の奥から誰かが私を覗き込んでいる気配がする。 かつて捨てた記憶たちは、今も鏡の向こうで物語を紡ぎ続けている。私がいつか、すべての荷を下ろしてこの鏡を通り抜けるその日まで。あるいは、私がこの鏡を割って、断片となった記憶とともに現実を粉々に砕いてしまうその日まで。 鏡の中の私は、今日も静かに私を待っている。失われた記憶という名の寓話が、ページをめくられるのを待ちわびながら。私はただ、自分の手を見つめる。指先には、まだあの凍った池の冷たさが、ほんの少しだけ残っているような気がした。それが、現実か幻想かを知る術は、もう、どこにもない。