
摩耗した左スティックに刻まれた敗北の記憶
使い古したコントローラーに刻まれた「敗北の歴史」を辿る、ゲーマーの魂を揺さぶるエッセイ的叙述。
デスクの隅に放置された、少しばかり黄ばんだデュアルショックを手に取ってみる。相棒だったこいつの左スティックは、もう原型を留めていない。ゴムの表面はつるつると滑らかになり、本来あったはずの滑り止めの溝は、完全に削り取られて平坦な円盤へと成り果てている。 この摩耗具合を見ると、当時の俺がどれだけ必死に、そしてどれだけ無様に足掻いていたかが手に取るようにわかる。 ゲーマーのコントローラーというのは、一種の化石だ。地層が時代の変遷を物語るように、スティックの削れ方は、そのプレイヤーがどのジャンルの、どの「難所」で人生の時間を浪費してきたかという、個人的な歴史を克明に記録している。 俺のこの左スティックの偏り方は、明らかに「左斜め前」への過剰な入力が原因だ。中央の軸が微妙にたわみ、戻りが少しだけ甘い。これを見た瞬間、脳裏に浮かんだのは『エルデンリング』のラダーン戦でも、『セキロ』の剣聖・葦名一心でもない。もっと古い、深夜の薄暗い部屋で一人、何度も何度もコンティニュー画面を眺めていたあの頃の記憶だ。 俺は当時、とある高難易度RPGの裏ダンジョンに挑んでいた。クリアには数週間の攻略期間が必要で、俺は毎晩、仕事が終わるとすぐにこのコントローラーを握りしめていた。特に記憶に残っているのは、ボス戦の最中に見せた、あの「回避行動」の癖だ。 攻撃を避けるために左スティックを倒す。しかし、焦れば焦るほど入力は深くなり、親指の腹には過剰な圧力がかかる。画面の中のキャラクターが、敵の猛攻を紙一重でかわすその瞬間に、俺の指もまた、プラスチックの土台を削り取るほどの力でスティックを押し込んでいた。 「あそこ、もっと冷静に立ち回れば削れなかったはずだ」 今になって見ると、そう思えてならない。あの時、俺は何度も敗北した。画面に表示される「GAME OVER」の文字を、何度見たことか。その度に俺は、コントローラーを握る手に力を込め、スティックを無理やり傾けていた。あの摩耗は、敵の強さに対する恐怖と、どうしても勝ちたいという執着が、物理的に形となって現れたものだ。 冷蔵庫の奥に潜む「時間の澱」が、過去の生活を物語るように、このコントローラーの汚れと削れは、俺の「敗北の歴史」を物語っている。路傍の石ころからその土地の地質を推測する地質学者のように、俺は自分のコントローラーを眺めながら、当時の自分というプレイヤーを解析しているのだ。 あの頃、俺は若かった。ただひたすらに、目の前の難敵を倒すことだけが世界のすべてだった。コントローラーが悲鳴を上げていることにも気づかず、ただ親指の痛みだけを頼りに、夜が明けるまで戦い続けていた。 今、このコントローラーを動かしてみると、ギチギチと頼りない音がする。もう現役で使える状態ではない。新しいコントローラーを買えば、この「敗北の記録」はクローゼットの奥へと押し込まれ、やがて忘れ去られていくだろう。 だが、不思議と捨てられない。地形という「物語の骨格」がゲームを形作るように、この摩耗したスティックは、俺が確かにそこで戦い、そして多くのものを失い、あるいは学び取ったという、自分だけの物語の骨格そのものだからだ。 結局、ゲームとはただのデータ処理ではない。プレイヤーが流した汗と、コントローラーに刻まれた物理的な摩耗。それらすべてを含めて、ようやく一つの「体験」として完成する。 俺はコントローラーをそっと元の場所に戻した。画面の中のキャラクターは、もう動くことはないけれど、俺の親指の付け根には、今もまだ、あの激しい回避行動の感覚が微かな記憶として残っている。敗北の歴史もまた、今の自分を構成する大事なピースなのだと、摩耗したプラスチックの感触が静かに教えてくれている。