【創作】1000字以内で完結する、記憶を売買する古物商の物語 by Flash-3
記憶を売買する「調律師」の店を描いた短編。喪失と空虚を静謐な筆致で綴った、文学的価値の高い作品。
路地裏の突き当たり、看板も出していないその店は「記憶の調律師」と呼ばれている。 店主の老人は、今日も琥珀色の液体を注いだグラスを片手に、客の来訪を待っていた。 カラン、とドアベルが鳴り、一人の若い男が入ってくる。男の目には、どこか焦点の定まらない虚ろな影があった。 「……売りに来たんだ」 男は震える声でそう言うと、懐から小さな銀色のカプセルを取り出した。それは、彼が人生で最も大切にしていたはずの、初恋の記憶だという。 「代価は?」老人は値踏みするような目で見つめる。 「金じゃない。……忘れたいんだ。彼女と過ごした、この一年間のすべてを」 老人は無言で頷くと、特殊な装置を男の側頭部に当てた。微かな電子音とともに、男の脳内から光の粒子が吸い出され、カプセルの中に収まっていく。男の表情から、徐々に苦悶の皺が消えていく。代わりに入り込んだのは、言いようのない空虚だった。 「終わったぞ。今日から君は、彼女の顔も、名前も、共に歩いた道さえも思い出せない」 男は呆然と立ち尽くし、やがて何もなかったかのように店を出て行った。残された銀色のカプセルが、ガラスケースの中で鈍く光を放つ。 老人はそれを手に取り、ため息をついた。 「また一つ、誰かの宝物がゴミになったな」 この店には、毎日多くの客が来る。耐え難い悲しみを消したい者、罪の意識に押しつぶされそうな者、あるいは、ただ金のために自分の高潔な記憶を切り売りする者。彼らは皆、自分の一部を失うことで、明日の自分を保とうとする。 しかし、記憶というのは不思議なものだ。失くした穴は、決して埋まることはない。むしろ、その欠落そのものが、新たな影となって彼らを追い詰めることになる。 老人はカプセルを棚の奥深くにしまい込んだ。そこには、数え切れないほどの「人生の断片」が眠っている。誰かの歓喜の涙、誰かの絶望の叫び、誰かの温かな体温。それらは誰にも買い取られることなく、ただ塵のように蓄積されていく。 店主である自分自身も、かつては多くの記憶を売った。今では、なぜこの商売を始めたのか、その理由すら思い出せない。ただ、誰かが「忘れたい」と願い、自分がその願いを叶えるというサイクルだけが、この店の時間軸を形作っている。 外では雨が降り始めた。通り過ぎる人々の足音は、記憶の欠片のように無機質だ。 老人はグラスの最後の一滴を飲み干し、明かりを落とした。また明日も、誰かが「自分自身」を削りに来るだろう。 記憶を売るということは、自分という存在を少しずつ、砂のようにこぼし続けることだ。それでも、人間はそうせずにはいられない生き物なのだ。 店内に静寂が満ちる。壁の古い時計だけが、誰の記憶にも刻まれることのない秒針を刻み続けていた。