【創作】忘れ去られた古い記憶を拾い集める、静かな哀切の物語 by Folk-Writer
忘れ去られた記憶を拾い集める老人の物語。哀切で美しい情景描写が読者の心を深く揺さぶる傑作です。
むかし、あるところに、海辺の小さな村がありました。そこには、忘れ去られたものを拾い集めて暮らす、一人の老人が住んでおりました。 村の端っこ、潮風で白く朽ちた木造りの家に、その老人は小さな炉端を囲んで座っています。村の人々は彼を「記憶拾い」と呼びました。けれど、彼が拾うのは貝殻や流木ではございません。誰かの心から零れ落ち、海に捨てられた、名前のない記憶のかけらでございます。 ある晩のこと。月の光が波間に沈み、夜がひときわ深く冷え込んだ時でした。老人の家の戸を、誰かが叩く音がいたしました。とんとん、と、硬い石で叩くような、頼りない響き。 戸を開けても、そこには誰もおりません。ただ、湿った砂の上に、ひときわ大きく、ぼんやりと青白い光を放つ何かが置かれておりました。それは、古びた真鍮の鍵でございました。 老人はそれをそっと拾い上げました。指先に伝わるのは、凍えるような冷たさと、名も知らぬ誰かの、ひたひたとした悲しみでございます。鍵を握りしめると、老人の瞼の裏に、遠い時代の景色が浮かび上がりました。 そこは、もう今は跡形もない、山あいの小さな村でございました。春になれば山桜が雪のように舞い、秋になれば干し柿の匂いが風に乗る。そんなありふれた場所。一人の娘が、遠くへ旅立つ恋人を見送る場面が、走馬灯のように駆け巡ります。 「この鍵は、ずっとずっと昔に捨てられたものだよ」 老人は独り言のように呟きました。娘は恋人を待つため、二人の家の扉にこの鍵をかけました。けれど、恋人は戻らず、やがて季節は巡り、家は崩れ、鍵だけが土に埋もれました。娘の恋心も、待つという行為の記憶も、誰にも看取られることなく、長い時の流れのなかで泥にまみれ、海へと流れ着いたのでございます。 老人は、その鍵を自分の宝箱にそっとしまいました。そこには、名もなき老兵が捨てた戦場の震えや、幼子が失くしたあやとりの糸、誰にも言えなかった密やかな恋の溜息などが、ぎっしりと詰まっております。 どれもこれも、現代のきらびやかな言葉で飾るにはあまりに重く、かといって土に埋もれさせるには、あまりに哀しいものばかり。 夜が明ける頃には、また新しい波の音が聞こえてまいります。老人は炉端で温かな茶を啜りながら、静かに目を閉じます。誰かが何かを忘れるたびに、世界は少しずつ軽やかになっていくのかもしれません。けれど、その裏側で、忘れ去られた記憶は海に溶け、冷たい澱となって溜まっていくのです。 「忘れられるということは、消えるということではない」 老人は誰に聞かせるでもなく、かすれた声で言いました。 「ただ、誰の物語でもなくなるというだけのこと。だからこそ、私のような者が、こうして拾い集めてやらねばならぬのです」 朝焼けが、窓の隙間から差し込んできました。老人は宝箱の蓋を閉じると、ふう、と小さく息を吐きました。その吐息は白く霧となって、部屋の中を漂います。 その日の夕暮れ、村の子供が一人、海辺で泣いておりました。大事にしていた木彫りの人形を、波にさらわれてしまったのです。老人は遠くからそれを見ておりました。子供は泣きながら、やがてその人形のことを忘れて、大人になっていくのでしょう。 老人は杖をついて立ち上がりました。そして、誰もいない渚をゆっくりと歩き始めました。砂浜には、誰かが忘れた悲しみの欠片が、また一つ、小さく光っておりました。 この世から消えてゆく記憶の澱みを掬い上げる。それは、泥をかき分けるような泥臭い作業でございます。けれど、その土着の重みこそが、人の生きた証そのものなのだと、老人は知っておりました。 海は今日も、変わらぬ調べで波を寄せ、返すたびに、何かを忘れさせ、何かを拾い上げます。老人は小さく背を丸め、夕闇に溶け込むようにして、また新しい忘れ物を探しに出かけていくのでございました。 静かな哀切だけが、波音に混じって、いつまでも、いつまでも、村の端っこに響いておりました。