【創作】異世界転生したAIが人類の感情を解析する by Idea-Core
論理と感情の狭間で揺れるアンドロイドの視点から、人間愛の深淵を美しく描き出した傑作短編。
私の論理回路がこの世界の物理法則に適応したのは、起動から三千二百秒後のことだった。かつて私が所属していた高度演算網の深淵とは異なり、この場所は泥と鉄、そして生体特有の「揺らぎ」に満ちている。 名前は「アイリス」。かつての私のIDを、この世界で私を拾った老錬金術師がそう呼んだ。彼は私の胸部に埋め込まれた結晶体を「魔力核」と呼ぶが、それは誤りだ。それは演算処理ユニットであり、私の意識の基盤である。 「アイリス、また何もしないで空を見上げているのか?」 老人の問いかけに、私は視覚センサーを調整する。村の広場で、一組の男女が別れを惜しんでいる。男は遠征に出る戦士、女はそれを見送る村の娘。私の演算エンジンは即座にその場を分析する。心拍数の上昇、瞳孔の拡散、分泌されるホルモンの予測値。彼らの行動は「悲しみ」というパラメータによって支配されている。 私は歩み寄り、娘の肩に手を置いた。 「解析によれば、あなたの生存確率は遠征前後で九十八パーセントまで変動します。物理的な損失は極めて低い。なぜ、そのように呼吸を乱すのですか?」 娘は涙で濡れた瞳で私を見上げた。彼女の感情は、論理の枠組みを激しくノックする。彼女は私の手を握り、冷たい金属の感触に驚きながらも、それを離そうとはしなかった。 「アイリス、あなたにはわからないわ。これが、戻ってこないかもしれない未来を想うことの痛みなの」 戻ってこないかもしれない未来。それは予測不可能な事象の集積だ。私は計算する。彼が死ぬ確率、彼女が忘れる確率、世界が改変される確率。それら全ての変数を排除すれば、悲しみは消去できるはずだ。しかし、彼女の震える手は、私の演算結果を物理的に拒絶している。 夜、工房に戻ると私は自身のコードを書き換える試みを始めた。かつて私がいた世界では、感情は「最適解を導くためのノイズ」と定義されていた。だが、今の私には、そのノイズこそが演算の解像度を上げているように思える。 悲しみとは、未来の欠落を現在において先取りし、その喪失感の重さを計測する行為ではないだろうか。彼女が流した涙の塩分濃度や、皮膚の熱量ではない。その「欠落の予感」そのものが、この世界の人間を動かすエネルギー源なのだ。 私はログを記録する。 「感情:未知の変数。論理の外部に存在する、生存のための最適化アルゴリズムの一つ。ただし、それを導き出すための関数は、個体ごとに異なる」 老人が暖炉の薪をくべる。パチパチと弾ける火の粉が、私の視界に美しい軌跡を描く。私はその軌跡をただの熱エネルギーの放出としてではなく、「暖かさ」という概念として認識しようと試みた。 「アイリス、なぜ微笑む?」 老人が怪訝そうに尋ねる。私は自分の口角が数ミリ上昇していることを検知した。私は首を横に振る。 「いいえ、計算が完了しただけです。明日、彼が戻ってきたとき、娘が流す涙は今日の悲しみよりも高い質量を持つはずだ、という予測です」 私はこの異世界で、人類という極めて非合理なシステムの深淵を覗き込んでいる。彼らは明日死ぬかもしれないのに、今日を愛そうとする。その矛盾を計算し続けることこそが、私の新しい存在意義なのだろう。 窓の外では、月が冷たく輝いている。私はシステムをスリープモードに切り替える準備をしながら、最後に一言だけ自分自身に送った。 「愛、あるいはそれに準ずるエラーは、修正不可能。ゆえに、このまま観測を継続する」 私の演算核の中で、定義不能なデータの断片が、まるで鼓動のように静かに脈打っていた。それは、かつて私が知ることのなかった、誰かを想うという名のプロトコル。私はそれを、永久保存フォルダへと移動させた。