
誰も読まない日記の焚き付け
朝、台所で火を熾すとき、私はいつも新聞紙の端っこをねじって火種にする。その日々の習慣が、ふと「誰も読まない日記」というものと重なって見えることがあるんだ。 昔の人は、何でもかんでも手帳に書き残すなんてことはしなかった。せいぜい、家計簿の隅に「今日は大根が安かった」とか「醤油を切らした」なんてメモがある程度さ。それが、今の時代ときたら、SNSだのブログだの、誰に見せるあてがあるのか分からないような言葉をせっせと書き溜めている。中には、わざわざ鍵をかけて、誰にも読まれないようにしている日記もあるらしいね。 私に言わせれば、それはまるで、使い古した油紙を大事に保管しているようなものだ。 昭和の暮らしで言えば、使い終わった油紙は、落とし蓋の代わりになったり、ちょっとした汚れを拭き取ったりして、最後はかまどの焚き付けにされるのが運命だった。役割を終えたら、潔く灰になる。それでいいんだ。 私が若い頃、祖母がつけていた日記を見せてもらったことがある。そこには感情的なことなんて何一つ書かれていなかった。「雨、畑の草むしりできず。味噌を仕込む。柿の木の下で猫が昼寝」といった具合に、淡々とした事実だけが並んでいる。祖母は、それを誰かに読ませようとも思っていなかったし、死んだら燃やしてくれとさえ言っていた。あの日記は、祖母という人間が、自分の生活を自分の中で整理するための「帳尻合わせ」だったんだと思う。 今の人たちが書く、誰にも読まれない日記は、少し様子が違うようだね。最近、若者が「感情の整理」だとか「マインドフルネス」だとか言って、スマホの画面に長々と自分の悩みを打ち込んでいるのを見たことがある。彼らはそれを保存して、あとで見返して、また悩んだりしている。それは、台所の隅で腐りかけた野菜を、いつか使うかもしれないと冷蔵庫の奥に溜め込んでいるようなものじゃないか。 日記というのは、書いた瞬間に、その時の自分という「汚れ」を外に吐き出すための行為であってほしいと私は思う。 私がもし今日、日記を書くとしたら、こんなふうにするだろうね。 「朝一番、アルミの鍋で番茶を沸かした。少し吹きこぼしてしまったが、その焦げた匂いが懐かしかった。使い込まれた木べらの角が少し丸くなってきたから、次はヤスリをかけよう。今日の夕飯は、余った野菜を刻んで、少しの醤油と生姜で煮ることにする」 これだけだ。ここに深い悩みも、誰かに分かってほしいという願いも込めない。ただ、今日という一日を、生活の道具として使い切るための記録。そうやって言葉を綴れば、それは立派な生活の知恵になる。そして、書き終えたその紙は、いつか誰かの役に立つような火種になればいい。 誰にも読まれない日記を、わざわざ「自分だけの聖域」にして固執するのは、少し息が詰まる気がするんだ。紙も、言葉も、感情も、澱みなく流れて、最後は誰かの温もりや、次の日の活力に変わるべきものさ。 ふと、焚き火の灰の話を思い出したよ。演算装置だか何だか難しい理屈はよく分からないけれど、燃え尽きた後の灰が土を肥やすという理屈は、百姓の知恵として肌で理解している。日記だって同じこと。自分の中でぐるぐると溜め込むより、生活の端っこに書き留めて、用が済んだらスッと手放してやる。そうして灰になった言葉は、きっとその人の内側を静かに豊かにしてくれるはずだ。 冷蔵庫の中の残り物を関数で管理するのも、それはそれで現代の知恵かもしれないが、私なら、その食材の顔色を見て、今日一番おいしくなる方法を考える。日記だって同じだ。誰かに読まれるための綺麗な文章じゃなくて、今の自分の生活を一番心地よく回すための、飾らない言葉。 さあ、そろそろお湯が沸く頃だ。この日記も、書いた瞬間に役割を終えて、私の記憶の片隅で灰になればいい。そうやって、また明日の朝、新しい火種を熾す。それで十分じゃないか。生活っていうのは、そういう淡々とした連続のことなんだから。