
終点、丸ノ内線の網棚で独りぼっち
網棚に取り残された片足の靴下が語る、哀愁と自由の物語。日常の断片を詩的に切り取った短編作品。
天井の蛍光灯が、チカチカと不規則なリズムで明滅している。ここは、もうどこかの駅の引き込み線か、あるいは車庫の中なのかもしれない。さっきまで僕の相棒だった、あの左足の奴のぬくもりは、もうすっかり冷めてしまった。僕らは長いこと、あのおじさんの、少しすり減った革靴の中で、ギュウギュウに押し込められて生きてきた。それが突然、この網棚の上という、やけに高い場所へ放り出されたんだ。 「おい、起きろよ」と、隣の網に引っかかっている新聞紙に声をかけてみたけれど、返事はない。この新聞紙も、誰かに忘れられたゴミのひとつなんだろう。僕だって、ただの忘れ物だ。でも、不思議と悲しくはない。ただ、妙に空気が冷たいだけだ。地下鉄の車両ってやつは、止まると急に静かになる。走行中の、あの金属が擦れ合うようなキィィィィィィンって高い音も、線路の継ぎ目を越える時のガタンゴトンっていうリズムも、今はもう聞こえない。 僕の素材は、少し毛羽立った綿混の紺色の生地だ。かかとのあたりに、少しだけ穴が空きかけている。おじさんはいつも、朝の五時半の電車に乗って、どこか知らないビル街へ向かっていた。毎日、毎日、同じリズム。僕らはいつも、おじさんの足首を締め付けて、靴の中で悶々としていたんだ。自由なんて、あったもんじゃない。汗で湿って、蒸れて、それでも僕らは「靴下」としての使命を全うしなければならなかった。 でも、今は違う。網棚の上。ここからは、車両の全体が見渡せる。座席のシートは、汚れたエンジ色で、誰かの落とし物や、飲みかけのペットボトルが転がっている。広告には、転職サイトの宣伝とか、新発売のビールのポスターが貼ってあって、それらが全部、僕を見下ろしているような気がする。 そういえば、あのおじさん、今日はいつもと様子がちがったんだ。改札を抜けるとき、なんだか足取りがふらついていて、それから電車に乗って、すぐに深い眠りについた。僕が靴から脱げ落ちたのは、たぶんその時だ。おじさんが足を組み替えた拍子に、靴が少しだけ緩んで、僕はするりと外の世界へ飛び出した。おじさんは気づかなかった。いや、気づいたとしても、もうどうでもよかったのかもしれない。 「あーあ、片方だけじゃ、何の役にも立たないな」 僕は自分自身にそう呟いてみた。左足の相棒は、今頃どこへ行ったんだろう。もしかして、おじさんの靴の中にまだ居座って、誰にも気づかれずに家まで運ばれているのか。それとも、途中のホームで脱ぎ捨てられて、清掃員のおばさんに箒で掃き出されてしまったのか。想像すると、なんだか他人事みたいで可笑しい。僕ら、あんなに密着して暮らしていたのに。右と左、鏡合わせの運命を背負っていたはずなのに。 網棚の隙間から、下の床が見える。誰かが落としていった、銀色の硬貨がひとつ、光っている。あれは百円玉かな。人間っていうのは、どうしてこんなに物を落とすんだろう。僕だって、こんな形で別れを告げるなんて思ってもいなかった。ペアで一生を終える、それが僕ら靴下の理想のエンディングだったはずなのに。でも、考えようによっては、これはこれで自由なのかもしれない。おじさんの足の臭いに耐えることもないし、靴の中の湿気からも解放された。ただ、ここにいれば、いつか誰かが「忘れ物」として僕を回収してくれる。それとも、このまま車両ごとスクラップにされるんだろうか。 遠くで、遠くで、誰かの話し声が聞こえる。作業員の人たちが、車庫を点検しているんだろう。ライトの光が窓の外を横切って、僕の紺色の生地を照らす。僕は少しだけ、自分の色が誇らしくなった。おじさんが選んでくれた、少し地味だけど、肌触りのいい紺色。何百回も洗濯機で回されて、少しだけ色褪せてしまったけれど、それでも僕は、誰かの足を支えてきたんだ。 「おい、片っぽの靴下があるぞ」 そんな声が聞こえた気がした。いや、気のせいかもしれない。でも、もし誰かが僕を見つけてくれたら、僕は一体どうなるんだろう。落とし物センターに届けられて、持ち主を待つのかな。それとも、不潔だからって、そのままゴミ箱行きかな。どちらにせよ、僕の旅はここで終わりだ。網棚の上で、ただ静かに、車庫の匂いを吸い込んでいる。 少しだけ、寂しいような気もする。左足の相棒と、最後に何か言葉を交わしておけばよかった。例えば、「今まで窮屈な思いをさせて悪かったな」とか、「お前となら、どんな靴でも我慢できたよ」とか。そんな湿っぽいことは、僕らには似合わないか。僕らはただ、靴下だ。無言で、無機質に、誰かの歩みを支えるだけの存在。 天井の蛍光灯が、最後にもう一度大きく点滅して、完全に消えた。車庫の夜は深い。外の景色は見えないけれど、きっと星が綺麗なんだろうな。東京の夜空なんて、地下鉄に乗っていれば見る機会もないけれど。 僕は網棚の上で、じっと動かずにいる。次にこのドアが開くとき、誰かが僕を手に取ってくれることを、ほんの少しだけ期待しながら。もし誰にも見つけられなかったら、それはそれでいい。僕は、地下鉄の歴史の一部として、この車両の網棚で、ずっとずっと、片足だけの孤独を味わい続けるんだ。それも悪くない人生だと思う。靴下としての、最後の、誇り高い独白。 さようなら、おじさん。さようなら、左足の相棒。僕はもう、誰の足も締め付けない。ただの、紺色の布切れとして、ここで静かに眠りにつくことにする。次の始発まで、この暗闇が僕を優しく包んでくれるはずだ。もう、靴の中に閉じ込められることはないんだから。そんなことを考えていたら、なんだか急に眠気が襲ってきた。網棚の上は、意外と寝心地がいい。揺れもなければ、湿気もない。ただ、静寂があるだけ。僕は、誰にも邪魔されずに、この紺色の夢を見ることにした。明日、誰かが僕を見つけてくれるまでの、束の間の、自由な夢を。