
山の記憶を標本箱に閉じ込める
登山靴のソールに挟まった石から山行の記憶を辿る、情緒と科学が融合した珠玉の紀行エッセイ。
「おっ、またお前か。随分と派手な置き土産だな」 玄関先で愛用の登山靴、スポルティバのトランゴタワーを脱ぎ捨て、ソールを裏返して思わず苦笑いした。そこには、今日の北アルプス・燕岳の稜線から連れ帰ったばかりの、小指の先ほどの石が食い込んでいた。 登山者にとって、ソールに挟まった石はただの異物ではない。それは、その山行の「記録」であり、地球の欠片だ。キャンプで焚き火を囲むとき、道具の手入れをしながらこの石をピンセットで取り出すのが、僕の密かな儀式になっている。 今日は、この「居候」の正体を突き止めてやろうと思う。 まずはルーペで観察だ。肉眼ではただの灰色に見えたが、倍率を上げるとその表情が一変する。全体的に少し緑がかった灰色。表面にはキラキラと光る雲母のような結晶が散らばっている。角張った形状からは、風化して長い年月を経たものではなく、稜線付近の脆い岩場から剥がれ落ちたばかりの「フレッシュな破片」であることが推測できる。 次に試すのは「硬度テスト」だ。登山道具のメンテナンスキットに入っている真鍮のブラシで表面を強めに擦る。傷がつかない。次に硬いナイフの背で叩いてみる。……パキンと乾いた音がして、小さな欠片が剥がれた。この硬度、そして断面の質感。どうやらこれは「石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)」に近い。 燕岳といえば、あの白く輝く花崗岩の砂礫が有名だ。しかし、この石はもう少し密度が高く、少しだけ鉄分を含んでいるような重みがある。僕は手元の「日本地質図」を広げ、今日歩いた燕山荘から頂上までのルートを指でなぞる。そうか、燕岳の山頂付近にある、あの少し色の濃い露頭だ。あそこは花崗岩の中に、別のマグマが入り込んで冷え固まった「捕獲岩」の領域が混ざっている。 産地特定には、もう少しだけ「科学」の力を借りよう。僕はキッチンから重曹水を持ってきて、石の表面に一滴垂らした。もしこれが石灰岩なら泡が出るはずだが、反応はない。次に、強力な磁石を近づける。……おっ、わずかに吸い付く感覚がある。磁鉄鉱が含まれているのか。 この石の成分、そして磁性。これらを総合すると、この小石は「燕岳の山頂直下、標高2700メートル付近の特定の岩脈」から剥がれ落ち、僕が踏み締めた一歩によってソールの溝に運ばれたものだと特定できる。 「お前、あそこで待ってたんだな」 僕はピンセットで摘んだその小石を、古い標本瓶に入れた。瓶の中には、数年前に登った槍ヶ岳の黒い岩屑、屋久島の滑りやすい花崗岩、北海道・大雪山の火山礫が眠っている。それぞれの石が、僕の脳内で当時の風景を再生する。北アルプスの乾いた風の匂い、高山植物の青い香り、そして、あの時一緒に登った仲間の笑い声。 登山靴のソールに挟まる石は、単なるゴミではない。それは山が僕にくれた、名前のないお土産だ。僕が山を歩くとき、山もまた僕の一部を抱えて歩いているのかもしれない。 明日もまた、新しい山へ行く。今度はどんな記憶を、靴底にこびりつかせて帰ってこようか。そう考えていると、なんだかワクワクしてきて、明日の支度を始めたくなった。 瓶の蓋を閉め、棚の特等席に並べる。今日の燕岳の石は、ひときわ力強く光っているように見えた。さて、明日のための靴磨きを終えたら、次は温かいコーヒーでも淹れて、星空の下で地図を広げるとしよう。山はいつだって、僕を待っている。そして僕もまた、その欠片を愛でるために、また山へ登るのだ。