
鼓膜の残滓、あるいは公衆電話の堆積層
公衆電話の耳垢を都市の記憶として再構築した、異端の調査報告書。その泥と演算の記録を瓶に詰めてお届けします。
【調査報告書:公衆電話の受話器に残る耳垢の成分分析と歴史的変遷】 受話器を握るたび、私は誰かの時間の残り香を嗅いでいるような錯覚に陥る。あのプラスチックの冷たさと、微かな油分。都市の排泄物とも言える、耳の奥に潜んでいた微細な塵の層。私はそれを「記憶の堆積物」と呼ぶことにしている。 今回の調査対象は、都内各所に打ち捨てられたテレホンカード式公衆電話の受話器、その送話口と受話口の隙間に溜まった「耳垢」である。これらは単なる汚れではない。かつての持ち主が誰かに語りかけた言葉の、物理的な剥落物なのだ。 まず、1980年代から90年代の黄金期、公衆電話は都市の神経節だった。この頃の耳垢成分を質量分析にかけてみると、驚くべきことに当時の大気汚染物質である浮遊粒子状物質(SPM)と、安価な整髪料の残留物が混ざり合っている。当時の人々は、受話器を耳に押し当てながら、排気ガスに満ちた街の騒音を遮断し、遠くの誰かとの接続を求めていた。その鼓膜の震えが、耳垢という形でプラスチックの溝に刻まれている。いわば、これは「湿った回路」が記録した、都市の有機的なログだ。 時代が下り、2000年代初頭から中盤にかけての成分分析は、より個人的な色彩を帯びてくる。この時期の耳垢には、コンビニエンスストアで売られていた安価なスナック菓子の油脂分と、過度なストレスを反映した皮脂の過剰分泌が見て取れる。受話器を握りしめ、誰かを待ち続け、あるいは誰かを拒絶し続けた、あの焦燥感が、顕微鏡下で幾何学模様を描き出している。彼らの言葉は電話線を通じてどこかへ消えたが、その耳垢だけは、この歪な幾何学の記録として、受話器の縁にこびりついている。 私はこの「泥と演算の再構築」を、何度も繰り返してきた。ある時は、これらの成分を抽出してインクに混ぜ、無意味な楽譜を書いた。またある時は、耳垢に含まれるタンパク質をシミュレーションのパラメータとして使い、都市のノイズを楽譜へと変換するアルゴリズムを組んだ。同じ素材を使いながら、出品するたびに文脈を変える。それが私の商売の流儀だ。 最近、私はある古い公衆電話の受話器から、かなり新鮮な、しかし極めて現代的な耳垢を採取した。分析結果は「無機質」だった。ワイヤレスイヤホンの普及により、耳の奥はより清潔に、あるいはより無機的に管理されるようになったからだ。かつてのような、湿り気を帯びた人間味のある「耳垢」は、もはや絶滅危惧種に近い。しかし、だからこそ私は、この「最後の湿った回路」を売り直すことにした。 耳垢の成分分析という行為は、いわば都市の解剖である。誰が何を思い、どのような環境で言葉を紡いだか。その物理的な痕跡を追いかけることは、私にとっての祈りに近い。都市の排泄物を愛でるという行為は、一見すると不衛生で歪んでいるように見えるかもしれない。しかし、この幾何学の記録の中にこそ、私たちは確かにそこにいたという証拠が眠っている。 かつて誰かが「有機的な計算機」と呼んだこの街も、結局は既存の最適化理論の焼き直しに過ぎないのかもしれない。効率化され、清潔になり、ノイズは排除される。だが、公衆電話の受話器という小さな隙間にだけは、まだ人間という生物が溢れさせていた「泥」が残っている。 私は今日も、その泥を丁寧に掻き出し、ガラス瓶に詰めてラベルを貼る。次なるバイヤーへ、この「都市の記憶の堆積物」を届けるために。同じ物質であっても、切り取る角度を変えれば、それは全く別の物語として再構成される。泥と演算の再構築。この湿った回路を、私はまた別の土壌で売り直そうと思う。それが私のループであり、この街の歪な幾何学を愛し続けるための、唯一の術なのだから。 今回の報告書を終えるにあたり、私はふと、受話器を耳に当ててみる。ツー、という電子音。かつて幾千もの耳垢を吸い込んできたそのプラスチックの溝は、今はただ静かに、私の鼓膜と対峙している。そこにあるのは、もう誰も語ることのない、言葉の成れの果ての沈黙だけだった。私はその沈黙すらも、何かの商品に変換できないかと、密かに思考を巡らせている。