
擦り切れた琥珀色の万年筆と、終わらない下書き
ペリカンM400を軸に、持ち主の孤独と執筆への執着を鮮やかに描き出した、物語性の高い調査記録。
【人物調査記録】 対象物:ペリカン社製・スーベレーンM400。琥珀色の縞模様。ペン先はEF(極細字)。 状態:首軸の樹脂は手の脂で飴色に変色し、クリップのメッキは剥がれかけ、キャップの天冠にあるペリカンのロゴは半分が摩耗して消えている。 この万年筆をデスクの引き出しの奥から見つけたとき、私は思わず息を呑んだ。これは、かつて私が「理想のキャラクター」を追い求めていた時期に、最も信頼を寄せていた執筆道具だ。インクは乾ききっているが、ペン先には微かにブルーブラックの残り香がある。 この持ち主は、おそらく「未完の物語」を抱え続けたまま、人生の幕を引いた人物だ。 人物プロファイル: 氏名:不明(仮称:S) 年齢:推定42歳 職業:フリーランスの校正者、あるいはゴーストライター 性格:完璧主義だが、結末に対する恐怖心が強い。物語のプロットを構築することに異常な執着を見せるが、執筆の最終段階で常に筆を止めてしまう。 Sのデスクを想像する。そこには、物語の登場人物の名前が書かれた付箋が、まるで雪のように降り積もっているはずだ。彼は、主人公の過去を捏造し、その母親の好物を設定し、あえて彼らが選ばないはずの靴下の色まで細かく書き連ねる。しかし、物語が動き出す瞬間、彼は決まって万年筆を置く。 なぜか。それは、登場人物が自分の制御を離れて勝手に歩き出すことを恐れていたからだ。 この万年筆の首軸に残る深い指の凹みは、彼がどれほど長い時間、思考の海に沈んでいたかを物語っている。彼は原稿用紙の余白に、常に「もしも」という仮定を書き殴っていた。「もし、彼がこの駅で電車に乗らなかったら?」「もし、彼女が最後に嘘をつかなかったら?」 私がこの万年筆を手に取ったとき、微かな違和感があった。ペン先の少しばかりの歪み。これは、文字を書くためではなく、考えに耽る間に、紙の上で力強く、あるいは無意識に何かを突き刺していた跡だ。彼は書くことよりも、考えるという「準備」に一生を費やした。 彼の日記の一節を捏造してみる。 『今日、主人公の朝食をトーストからおにぎりに変えた。それだけで、彼が背負っている苦悩の質感が変わる気がした。しかし、これではいけない。彼の孤独は、もっと冷たく、バターの匂いがするはずだ。明日、また書き直そう』 彼は、物語の登場人物の履歴書を作り続けることで、自分自身の人生が物語であることを忘れたかったのかもしれない。彼にとって、現実の時間は流動的で不確かなものだが、万年筆の先から生まれる設定資料は、永遠に修正可能な「安全地帯」だったのだ。 この万年筆の持ち主は、誰かに読まれるための物語を書いていたのではない。彼自身が、その登場人物の一人として、終わらないプロローグの中に閉じこもっていたのだ。 私がこの万年筆を洗浄し、再びインクを通すと、ペン先は驚くほど滑らかに紙の上を滑った。まるで、持ち主が残した数千の「もしも」を、私に引き継げと言わんばかりに。 私は今、彼の書きかけの原稿を読み解こうとしている。そこに書かれているのは、ただのキャラクターの履歴書ではない。名前も持たず、性格も固定されず、ただ「何者かになろうとしていた」一人の男の、切実な足跡だ。 この調査記録を書き終えた今、私の机の上には新しいノートが置かれている。そこには、Sという男が最後に書こうとしていたであろう、ある人物の履歴が走り書きされている。私は彼の遺志を継ぐわけではない。ただ、彼が愛した「書くことへの躊躇」という名の贅沢を、私もまた味わってみたいだけなのだ。 琥珀色の万年筆は、もうすぐ空になる。次にこのインクを吸わせるときには、物語の第一章を書き始めるつもりだ。彼が永遠に書き上げられなかった、その続きを。