
菜種油の残り香と、闇を分かつ火種の話
菜種油の香りと共に江戸の夜を追体験する、情緒あふれる随筆風の紹介文。
夜が深まる。行灯(あんどん)の芯を少し切り詰め、炎の揺らぎを整える。この静寂こそが、江戸の夜の醍醐味だ。お前さん、今この部屋に漂う独特の匂い、気になったことはないかい? 灯りをともす油の匂い。現代の機械的な明かりに慣れた鼻には、少しばかり重たく、そして懐かしい匂いだろう。これは菜種油(なたねあぶら)だ。江戸の夜を支えた大黒柱、この菜種油の香りが、今夜の闇をより濃く、そして優しく塗り替えている。 私が子供の頃、祖父の仕事場にはいつもこの香りが染みついていた。江戸の職人にとって、油は単なる消耗品じゃない。それは「夜を買い取るための対価」だったんだ。 菜種油の匂いには、独特のコクがある。少し焦げたような、それでいて植物の力強さを感じさせる野趣あふれる香りだ。これが、行灯の紙を通して部屋中に充満する。夏場なら蚊取り線香を焚くこともあるが、あの人工的な煙とは訳が違う。油の香りは、夜の闇に溶け込み、人々の営みと一体化する。 さて、この油について少し語らせてくれ。江戸の灯りは、今でこそ一括りにされるが、当時は「油の質」で随分と階層が分かれていたんだ。 まず、最高級品とされていたのは「赤油(あかあぶら)」、あるいは精製を重ねた「白絞油(しらしめあぶら)」だ。これはな、とにかく煙が少ない。行灯の紙がすぐに真っ黒に煤けてしまうのは安物の証拠だが、白絞油は極めて澄んでいる。長屋の商人が大晦日の晩など、ここぞという時に奮発して買い求めるのがこれだ。火を灯せば、部屋の空気が清らかに引き締まるような気がしたものさ。 対して、庶民の暮らしに寄り添っていたのが「並油(なみあぶら)」だ。菜種を搾っただけの粗削りなやつさ。こいつの香りは強烈だ。初めて嗅ぐ者はむせるかもしれないが、江戸っ子はこれに慣れ親しんでいた。この「油臭さ」こそが、家族が揃って夕餉を囲む団欒の匂いであり、夜なべ仕事の励ましの匂いでもあった。 油の銘柄、と言っても現代のブランド品とは少し趣が違う。当時の江戸では、産地や搾油所によって「どこどこの油」という呼び名がついていた。特に、近江の菜種を江戸へ回して搾る「江戸絞り」は、鮮度が違った。搾りたての油は、色が黄金色に輝いていて、火を灯すとパチパチと微かに音を立てる。これがまた、寂しい夜には最高の話し相手になるんだ。 私には忘れられない記憶がある。まだ私が若造で、灯りの歴史を追いかけていた頃の話だ。ある老職人の家を訪ねた時、彼は「油の善し悪しは、火が消えた瞬間の匂いでわかる」と言った。 火を消すとき、わざと芯を少しだけ太くして、フッと息を吹きかける。その瞬間、立ち上る白い煙。その煙に鼻を近づけてごらん、と老人は言った。 質の良い油は、消えた後も高貴な香りを残す。だが、質の悪い油や不純物が混ざったものは、鼻を突くような酸っぱい臭いを放つ。 私はその通りにやってみた。老人の行灯の火を消させてもらうと、確かに違った。鼻腔をくすぐる、何とも言えない芳醇な余韻。それは、夜という時間が完全に終わったことを告げる、儀式のような香りだった。 江戸の暮らしは、灯りの管理そのものだったと言ってもいい。油を使いすぎれば家計が傾く。ケチれば闇に沈む。そのギリギリのバランスの上に、江戸の文化は成り立っていた。浮世絵の色彩も、歌舞伎の舞台の演出も、すべてはこの菜種油の炎が作り出す「揺らぎ」の中でこそ、最も美しく見えたのだ。 今、私の傍らで揺れる行灯も、そろそろ芯の調整が必要な頃合いだ。 火を灯すという行為には、闇に対する敬意が含まれている。闇を消し去るのではない。闇の中に、小さな居場所を確保する。そのための灯りであり、そのための油だ。 お前さんも、もし機会があれば、一度だけでいいから行灯を置いてみてほしい。そして、火を消す瞬間のその煙を、じっくりと嗅いでみてくれ。 きっと、江戸の夜がどんな匂いをしていたのか、その一片に触れられるはずだ。菜種油の香りは、時間を超えて、今もこうして私たちを夜の静寂へと誘ってくれる。 さて、そろそろ夜も更けてきた。油の残量もあとわずかだ。 今夜はこれくらいにしておこう。火を消す。フッと息を吐けば、微かな煙が立ち上り、私の意識もまた、闇の中へと溶けていく。 この香りが消え去るまでが、私の夜だ。